私はアメリカに住み始め既に40有余年が過ぎ、生まれ育った国より移民として移り住んだ国の方が長くなりました。

周りの人達も高齢化が進み私自身最近は結婚式に出席するより葬式に参列する回数の方が断然多くなり、2016年年明け早々1月は3回も葬式に出ました。

今迄公私共々何十回と葬式に参列した経験がありますが、その中でも今回Mさんの葬式ほど人の一生をしみじみと考えさせられた葬儀はありません。

亡くなったMさんは享年80歳。 

1936年に当時日本の植民地であった満州(中国)で日本からの開拓団として移民した両親の下に生まれ、愛情豊かな家庭で恵まれた子供時代を過ごしていた頃たまたま両親の里帰りの為1945年8月1日彼女は家族と一緒に船で長崎市へ辿り着きました。

これが運命の分かれ目で若し満州に居たなら8月15日に終戦をそこで迎え、過酷な状況下を生き延びて両親と共に無事祖国の地を踏む事は出来なかったでしょうし、又乗っていた船がアメリカ軍から撃沈される事もなく無事長崎港に辿り着けたと云うこと只々強運の許にあり、幸運の女神が微笑んでいたと言うより他は有りません。

然し乍ら8月9日長崎に投下された原子爆弾により爆心地から可成り離れた地域ではあっても矢張り被爆者となった彼女は生涯被爆者手帳を持っていました。

一寸先は闇と言いますが、人生を生きて行く間には何が起こるか分かりません。

そして終戦後日本に上陸したアメリカの軍人と運命的な出会いの末結婚し、戦争花嫁として60年前にサウスキャロライナ州、ユニオンと云う都市に移り住みました。

私は今回葬儀の為ユニオンと云う街へ初めて行って来ましたが過疎化が進んだ胸を打つ様な寂れた街で、当時アメリカ南部の人種差別が取分け激しかった所で子供が出来なかった彼女は夫だけを唯一の味方として60年をそこで耐え、地域にしっかりと根を下ろし、日本人として恥じない模範と生き方をして来た訳です。

夫に先立たれた彼女は一人で家を守り最後にはここの土となった訳ですが、野辺の送りを終え寒さが肌を刺す冬の夕暮れ私はユニオンの寂れた街並みを見ながら彼女がアメリカ人として生きた60年の計り知れない努力を思うと涙が溢れてなりませんでした。

ニューヨークやロスアンジェルスから比べればサウスキャロライナ州はまだまだ田舎ですが、それでも私達は日本からアメリカに来た最初の日からほぼ何不自由ない暮らしが出来、現地の人達とも対等に喋り意見を交換する事も可能ですが、今でさえ何もないユニオンの街で、ましてや60年前は日本食の食材一つでさえ手に入らず、新聞やテレビの日本語放送を見聞きする時代が来ることを想像することさえ出来なかった異国の土地で、人種差別、偏見と闘いながら孤軍奮闘し本当に良くやって来られたと胸が熱くなりました。

Mさんが日本から来た頃は異人種と云う事で近所の人達から口さえ利いて貰えなかった訳で、戦争花嫁として異国の地で生きてゆく事はどれ程過酷な人生であっただろうかと容易に想像が出来ます。 

今回の事で今後私の後に続くであろう人達の為に、日本人として恥じない生き方をしなければならないと心を新たにした次第です。

Posted by:ayakopiper